(短編)もう戻らないあの日々



 

 

『ねぇ、ほら、見て! 桜!』

 一緒に暮らす為に借りた部屋。そこのマンションから程近いところにある少し広い公園敷地に植えられた桜が見える。

『ちょっと行ってみない?』

 引っ越したばかりで、片付けられていないダンボールがまだある。でも、いい加減飽きてきた作業より、新しいものへの興味が勝つ。まだ、この辺りのことをなにも知らない。

『じゃあ買い物しながら、散歩でもしようか。その格好でいいの?』

『ん、大丈夫』

 優しい人だ。滅多に怒らない人だ。我が儘は叶えてくれることの方が多い人だ。

 今日だって動かしていた手を止めてこちらを見ると、微笑んだ。もう夕方だし、夕飯用意しないとね、と。

 パーカーの上から、ソファーに放っていた薄手のデニムジャケット羽織り、二人で家を出た。

 公園の地面は、桜の花びらがところ狭しと散っていた。隅の方には少しばかり山ができている。

 鳥につつかれて落ちた桜の花の、比較的綺麗なものを拾い集める。片手から溢れそうになるくらい集めたら、それをベンチにぼんやり座っていた人へ向かって放る。

『ほーら、桜のシャワーだよー』

『うわっ、やめろって』

『あはは、髪にいっぱいついたー』

 笑う。二人で笑う。

 幸せで笑う。幸せが笑う。

 ふざけてないで買い物行くよと、愛しい人が手招く。呆れた?と問えばそんなところが好きだからと、愛しい人が囁く。ずっとそのままで傍にいてねと、愛しい人が願う。ね、―――と、愛しい人が呼ぶ。

 そうして伸ばした手は、……届かない。

 

 ピリリ、ピリリとカーテンに光を遮られた静かな部屋の中に、一定のリズムで電子音が響く。盛り上がった布団の下から伸びた細く白い腕が、電子音を止めた。

 むっくりと、誰かが起き上がる。

「……さむ」

 たったひとつしかない布団には、自分の温もりしかない。一人には、もうだいぶ慣れたはずなのに。

「……、さむいなぁ」

 目をさする誰かの目尻で、枕を濡らしたなにかが冷たく光る。

 夢に見たのは、もう戻らないあの日々だった。優しくて、暖かくて、柔らかな、愛しい想い出だった。

 一緒に暮らせたのは一年だけ。部屋はすぐに解約してしまって、あそこからは遠く離れたところに新しい部屋を借りた。今はもう、あの部屋で別の誰かが、別の想い出を紡いでいるのだろう。

 隣にあの人がいなくても、夜は何度も明けていく。そんな当然のことに慣れてしまったけれど、時折思い出しては寂しくなる、春の一時。

 

 

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